つぶやき

長短、いろいろ書いていきます。

平成24年1月30日(月) その12

第5回全国高専英語プレコン終了。http://cocet.org/precon/2011/

大分高専、2連覇。しかも本科2年生チーム。今まで発表内容の題材作りの面で上級生か専攻科生が有利、と考えて、学内でチーム作りの声かけをするときも低学年はあまり考慮していなかった。しかし低学年でもやればできるのだ。考えを改めよう。校長先生も見学に来て下さったので、学内認知度が上がることを期待したい。

平成23年12月2日(金) その11

もうすぐ後期中間試験。高専学生が納得するように授業をするには、授業のレベルや内容は普通高校と同じように教え、読ませたり書かせたりする「量」は激減するものとして諦め、試験はどこからどんな問題を出すと事前に教えてあげることかな?それじゃ力は付かないけれど、まぁこのあたりが妥協のしどころかもしれない。高専とは言え、比較的英語に関心を持っている学生もいるので、あまりレベルを落とすのも彼らのためにならない。また技術者養成校だからといって科学技術系の題材を扱えば良いというものでもない。それ以前に15-20歳の若者達だ。いろいろな題材に触れて世界を広めるべき。しかしその一方でやはり彼らの意識は専門科目(一般科目なら数学・物理)なので、大学進学が当然の普通高校生と同じような努力(勉強量)をもとめると、互いを理解できない溝に落ちてしまう。「英語の勉強をして良かった、やりがいがある」と感じてもらうためにはやはり試験で良い点数を取ってもらうことが大切。進学高校なら逆に非難されるやり方(そんな問題で点数が取れても入試では対応できない!力が付かない!)であっても、ある程度試験問題の傾向を教えて上げてもいいかもね。

平成23年10月1日(土) その10

シンガポールでの工学教育シンポジウムISATE2011終了。本校A先生のプレゼンとワークショップは素晴らしかった。スラスラ英語が出てくるのはソフィアンだからか、それともアメリカでドクターを取った海外生活7年のなせるわざか。また英語だけでなく内容が素晴らしかった。しっかりシンポジウムの本筋である工学「教育」というのを踏まえている。この発表会は各自の専門分野の発表会ではないのだ、自分が専門学科で担当する授業をどのように工夫して教えているかを発表するシンポジウムなのだ。それをわかっていない日本側からの参加者が多数いるという残念な状況がある。中には自分が顧問を務める部活動の様子を発表した人もいた。まったく工学教育とは無関係の内容。それすらも受諾しないとこのシンポジウムが成り立たない(日本側からの発表数が不足して体をなさない)のだろう。

平成23年9月15日(木) その8

 

その4で「自分の書いた日本語論文を翻訳家に英語にしてもらって、それを見て英語を学ぶ」と書いたが、ピンと来ない教員もいるかもしれない、と思い当たったので追記する。例えば私は高校時代朝日新聞の天声人語の英訳(原書房という出版社が見開きで日英対訳本を出版していた)で、英語の勉強をした。「どう考えても英語には訳せないのではないか」と思えるほど、日本語日本語した日本語を、プロの翻訳家がどのように英訳するのか観察する勉強方法だ。時に「スゴーイ。こんな表現があるのか!」とか「こう言えば良いのか!なるほど」と感動することもあれば、「なんか、そっけない表現だな。でも英語だとこうしか表現できないのか」と肩すかしを食らうこともあった。いずれにせよ「英語らしい英語にするセンス」はこの勉強方法でかなり磨かれたと思っている。

 

翻訳経費は学校に出してもらって、英語の勉強を奨励、というのはこういう意味です。 

その9

今日の試験問題、予告したとおりそのまま出題された、、、と喜ぶなよなぁ、、、。orz

 

平成23年9月14日(水) その7

カッコ埋め問題の自己採点で、例えばカッコが3つあったときに、その一つ一つに丸をつける感覚は改めて下さい。3つともあって一つ丸です。3つがそろって一つのポイントを勉強しているわけですから。当てはまる人は今後留意して下さい。

平成23年9月3日(土) その4

高等教育機関では「国際交流活動の活発化」が盛んだ。海外からの学生受け入れ、海外への学生派遣を促進するため多くの企画が組まれている。(学生の行き来だけが企画の全てではないが)。それはそれで意味のあることだが、もっと足下を固めることに目を向け、資金導入してもよいのではないかと思う。例えば学校のホームページの英語版。というか英語化。つまり学校のホームページは基本的に英語にしてしまって、「日本語」というリンクを作りそこから従来のホームページへジャンプするようにする。ホームページの英語化にあたり、信用の出来る翻訳家(翻訳会社)に翻訳を依頼し、ちゃんとした英語(いかにも日本的、または日本語直訳的なものでなく)でホームページを作る。きっと海外からのアクセスは急激に伸びると思う。(こうした実験を「研究として」経費を出してくれるならやってみたい)。

先生達の論文だって「全て英語で書いて下さい」といえばどうかな?実際には自分で日本語で書いてそれを信頼できる翻訳家に翻訳を依頼する。その経費は学校が負担する。先生は自分の日本語論文をどのように英訳すればちゃんとした英語になるのか、学ぶ。(翻訳を依頼してその作品をもらって終わり、ではない)。そんな試みをしばらく続けていけば、だんだん自分で英語が書けるようになると思う。また英語での発表があるときは、英語でのpublic speechの指導を受ける。(経費は学校負担)。こんな試みを繰り返していけば、先生が英語で授業をできるようになるかもしれない。そうした先生から授業を受ける学生達は、海外に目を向けるreadinessが十分育つはずだ。「国際交流活動の活性化」はこんなお金を使い方をしたらどうかなぁ。

「アピールしやすい事業を企画して多額の資金を調達して、それに応募して、学生達に国際的経験をさせました」じゃ駄目だと思う。自分自身が国際交流活動のrole modelになる覚悟がなければ、上っ面で終わるだけだ。

その5

問題集や練習プリントの取り組み方は、(授業を受けた学生ならわかると思うが)

1)鉛筆での書き込み (試験のつもりで、その時点の全力を出して書き込む)

2)青ペンでの書き込み (一種のカンニングモード。教科書、参考書、辞書、インターネットなど

ありとあらゆるresourceを利用して良いので、とにかく徹底的に調べて書き込む

鉛筆段階では空欄にしてしまった箇所を埋め、自信がなかった箇所は点検し、

必要に応じて自分の鉛筆での解答を変更する。しかし鉛筆書きは消さない。青で追記する。

3)赤ペンでの書き込み (いわゆる答え合わせ。1)2)で取り組んだ結果に解答冊子を見ながら丸つけをし、訂正をする。)

といつも指導している。そして2)が一番大切で一番時間をかけるべきだ、と強調している。1)はその時点での実力を出すのが精一杯だからかける時間にも限界がある。しかし2)は気になるところ、わからないところ、自信がないところ、全てに渡って調べて良い段階だ。何にどれだけ気付くことができるか、気付いたことをどのようにして調べることができるか、その作業が自分を高める。例えば定期試験で辞書使用可としても、その辞書をどれだけ活用できるかは各個人で大きく異なる。だから2)のような作業で調べる力を身につけて欲しいのだ。3)は単なる答え合わせ。あまり学ぶことはない。

今、夏休みの課題を点検しているが、2)がうまく出来ない人が相変わらず多い。解答冊子の答えを見てそれを青ペンで書き込んでいる人(そうとしか思えないもの)が多い。青で書き込んだ箇所に赤丸をつけていなかったり、青字の書き込みを赤で訂正していない人が多い。それは青を既に正解として書き込んだ証拠で、自力で調べた形跡とはみなすことはできない。要は、見た目に、鉛筆、青ペン、赤ペンの3種類があるようにしているだけだ。この点、改めて欲しいです。

その6 (なぜか今日も3つ書いている)

その1のテーマと結びついていく内容ですが、とりあえず直訳と意訳の話だと思って読んでもらっていいです。

これも授業中にいつも言っていることだが、例文を理解するときに1)英文を見て、2)その意味を確認するだけでは駄目だ。

その文が3)どんな場面で使われるか、を考えなくては理解したことにはならない。SLA(第二言語習得)の世界で、

1)form, 2) meaning, 3) functionと呼ばれるものだ。先日も3年生の授業で以下の例文を扱った。

 I expect he will have got well by Easter.

「はい、勝手に作って良いから状況を決めて-」 「A君、"I" ってだーれ?」

「僕自身です。」

「OK、じゃー、B君。"he" ってだーれ?」

「僕です。」

「了解。じゃー、この文の"I" はA君で、"he" はB君ということで。」

「get wellということは、B君は今どんな状態なの?そう、怪我とか病気だよね。鬱病とか精神面の可能性もある。

それでもって、A君は、なんでB君が回復するだろう、回復すると期待するの?」

「A君はB君を愛しているから」(クラス内に笑い)

※その他、Easterとはいつで、この台詞をしゃべっているのはいつで、なぜEasterまでに回復なのか、

とか、他の要素についても質問していくが、そこは割愛。

「なるほど。でもちょっと待って。A君とB君、つまりI とhe がそういう関係ならexpectじゃなくて、hopeじゃないか?

望みが薄い場合ならwishを使って、I wish he would get well by Easter.と言うかもしれない。でもここはexpectを使って、

しかもwill have got well、つまり「回復しているだろう」って言ってるよ。

なんか状況がずれてこない?” I ”ってどんな人が言いそうな台詞かな?」

「そう、例えばお医者さんだね。そしてheは患者さん。その方がA君とB君の許されぬ関係(!)を想定するより、しっくり来るよね。」

このようにしてform-meaning-functionを結びつきを意識して勉強することがとても大切です。この認知プロセスをSLAでは「気づき(noticing)」と言います。「気づき」があるとinputがintakeに転換する大きな助けとなります。

で、直訳 「私は彼がイースターまでには回復しているだろうと予想します。」

意訳 「息子さんは4月末くらいにはもう良くなっていると思いますよ。」(医者と患者の母親という状況設定)

というような訳の違いになる。直訳と意訳のひとつの大きな境目はfunction(機能)が考慮されているかどうかだ。このようにして勉強すると、無味乾燥な英語例文集に自分で命を吹き込むことができるし、使える英語学習にぐっと近づく。

平成23年8月27日(土) その1

日本でコミュニケーションとしての英語を身につけるのは本当に難しい(不可能とは言っていない。いくらでも可能だ)。日常生活で実質英語が不要という状態は致命的だ。英語で伝えなければ生活や生命が危ない状況がなければ、誰もが一般的にそこそこの英語は使えるという社会にはならない。例えばシンガポール。発音などいろいろ問題はあるが、とにかく英語で表現しないと生活に差し支える状況があるから、誰でも必要に応じて使う。使う場面があれば覚えるのだ。発音が良い方が伝わりやすい、と実感すれば発音練習をする気にもなる。日本社会にはそれがない(じつは素晴らしいことなのだが)。

それでも大学受験などで無理矢理に英単語など覚えようと努める。機械的棒暗記には限界があるから、よくあるやり方は単語にまつわる「知識」を身につけ、記憶のネットワークを構築しようとする方法。COCET3300にも「解説」のおじさんの吹き込みがあるが、あれもなんとか単語を記憶にとどめやすくしようとする試み。語源や関連語句、単語の形成過程など。ただ、これらの知識は母国語話者にとっても知的で高度な教養だ。日本語でも外国人から「この単語の語源はなんですか?」なんて質問されてさっと答えられる人は少ないだろう。こうした知識や記憶のネットワークを作って語彙を増やしていける人はいわゆる「頭の良い人」なのだ。

だから英語ができるひと=頭のいい人、のようなイメージが出来上がる。

さらに単語だけでなく文章を組み立てることができ、さらにさらにそれを正しい発音でしゃべることができる、英語が聞き取れる、英語でコミュニケーションがとれる、なんてことになると「すごい人」になってしまう。日本人全員を「すごい人たち」にしようってか?そりゃ無理でしょう。

それで文科省は「英語の授業は英語で行いましょう。英語を使う場面(聞いて理解するだけでもそれは使うことです)をまずは教室の中で増やして行きましょう」と英語教育の改善を図ろうとしているのです。英語の授業時間だけはシンガポールになりましょう、と理解してもらっても良い。。

方向性は正しいし、そうあるべきだと思う。2013年からは高校の授業は原則すべて英語で行いなさい、という達しが出ています。この問題は語り尽くせない、つぶやきが終わらないので、今日はここでやめておきます。

その2

A君と同じ時に勉強を始めました。あなたはどんなに一生懸命がんばっても宿題を終わらせるのに2時間かかるのに、A君は30分で終わる。いろいろコツや工夫をA君に教えてもらって、自分なりに努力を続けるのだけれど、やっぱり1時間30分かかる。A君は20分で終わるようになってきた。それで聞いてみた。「A君、きみはどうしてそんなに頭がいいの?」A君は答えようがないよね。できるからできるんだよ。A君に秘策があるわけではないんだ。スポーツでも同じ。

人生は不公平なのです。ある人には努力しないとできないことを、ある人は努力なしで得てしまう。ってかあなたには「どうがんばってもできないこと」を、他の人は「努力なしでできてしまう」こともある。そこを「なぜ?」と尋ねてみても仕方ないのです。答えなんかありません。その人はその人、あなたはあなたなのです。

でも2時間から1時間30分に努力して時間を縮めたあなたには、A君にはわからない、いろいろな悟りや価値観、強さが生まれている可能性もあります。それはA君には一生身に付かないことかもしれない。A君はもしかするとあなたのそんな部分がうらやましいかもしれない。

ところでA君は、クラスで一番かわいいB子さんが大好きです。彼女にしたいと毎晩妄想しています。A君はかなりイケメンでもあります。あなたのルックスは中の下です。「なんでAばっかり、、、」。答えはありません。人生は不公平なのです。でもB子さんは、あなたに思いを寄せていたりします。(A君)「なぜだぁぁぁ?!!!」答えはありません。人生は不公平なのです。

最後はちょっと「お遊び」でしたが、ないことではありません。

客観的に自分の実力(強さ、弱さ)を知り、できる限りの努力を続ける、そしてそうした自分をちゃんと認め、受け入れ、好きになる。そうすれば「人生は不公平」を自分なりに受け入れることができるようになると思います。でも20歳前後まではidentity crisisといって悩むことが多いと思います。

その3

初回なのでもうひとつ。

中学や高校の先生と、高専や大学の先生の仕事の違い。前者は中等教育機関で働く先生で、後者は高等教育機関で働く先生です。

中等教育機関の先生の仕事は、自分が担当する生徒達の指導(学習、生活)をすることです。指導の枠組みは教育委員会やその学校で決められ、その枠の中で自分たちができる指導を行います。その先生の評価は、生徒達の心の中や保護者からの信頼などという形で現れます。校長先生などから評価されることもあるでしょうが、その評価の基本はどれだけ生徒をきちんと把握、指導できているか、保護者からの信頼がどれほどあるかなどがベースになるでしょう。

高等教育機関の先生達の仕事は、自分の活動を「形」にして公に発表することです。公表できる形にまとめ、実績を作らなくてはいけません。「論文」だったり「企画」だったり「発明」だったりします。それらの活動に必要な経費を国や企業などに申請することができます。いわゆる「研究者」という位置づけです。うまくいけば、その地域や国全体に利益をもたらすような活動になります。

高等教育機関の一員として、最近気になることがあります。目に見える実績作りに躍起になって、取り組みたい活動の具体案やそれに対する意欲(エネルギー)が充填しないうちから、とにかく「形作り」に走る傾向です。何かを「申請するために」具体案を作り上げるとか、取り組むエネルギーが十分ないのに文科省や機構から募集される企画に応募しようとしたり。下手すると税金の無駄遣いになっていないか、と心配になることもあります。まぁ募集をかける母体や、応募を促す人達にも大いに考えて欲しいところです。英語教育関係者としては海外派遣や受け入れを通じて国際交流を図るのもいいけれど、もっと地道に英語力を向上させることに目を向けて欲しいなぁ、と思います(英語力の向上が必要なのは学生だけじゃないです)。もちろん教育だけに専念して中等教育機関と区別がつかなくなってしまうとそれはそれでまずいのでしょうが。