Steve Jobs

ジョブズが最初に行ったことの1つはマックワールド会議で講演をすることだった。彼は状況を変えたかったのだ。「アップル社は活気を取り戻さなくてはならない」「Macは10年で大した進歩をしていない。Windowsが肩を並べてきた、従って我々は更に優れたOSを作り出さなくてはならない」とジョブズは言った。

 

ジョブズはNeXTからやってきた人間にアップルでの中核的仕事を与え始めた。しかしアップル社の状態は非常に悪かった。才能のある社員達はアップルを離れ、マスコミはアップル社の倒産をほのめかした。

 

ジョブズは決して2番目の地位に甘んじることができない男だった。結局、7月4日にアップルの理事会はギル・アメリオを解雇しスティーブ・ジョブズを理事会のメンバーに戻す決定をした。(その後)2ヶ月間はジョブズは肩書きを持たなかった。9月になると彼は年俸1ドルの給料で暫定CEOになった。

 ---------------------------

1997年8月に、マックワールド会議が、今度はボストンで、また開かれた。ジョブズはまた演説をした。彼はアップル社を変えようとしていた。「アップル社には多くの優れた人材がいるが、彼らは間違ったことをしている、なぜなら会社が方針を間違ってきたからだ。私は正しい戦略に従いたくてうずうずしている人達がいることに気づいてはいるが、これまで良い戦略がなかったので彼らはそれができないでいるのだ。」とジョブズは言った。

演説の最後にジョブズはアップル社の長年のライバルであるマイクロソフト社との協定を発表した。マイクロソフトはアップルに1億5千万ドルを投資し、マック用のワードとエクセルの開発を始めることになった。

マック愛好家達はアップルがマイクロソフトと協定を結ぼうとしていることに衝撃を受けたが、この協定のおかげでアップル社は救われたのである。

---------------------------

新しい広告活動

ジョブズは常に、トータルとしての製品を大事にした。全てが、つまり、組み立て具合、外観、包装、宣伝が完璧でなくてはならなかった。彼は、アップル社は何が違うのかを世に知らしめるための大規模な宣伝活動を立ち上げることにした。

ボストンのマックワールド会議での講演で、ジョブズはアップル製品を購入する人達について語った。「アップル社の製品を購入する人達は、他の人達とは違う考え方をする人達なのです。」「彼らはこの世の中で創造的な精神を持った人達であり、彼らは世の中を変えるためにこの世にいるのです。そして我々アップル社はこうした類の人々のための道具を作るのです」

この広告活動はこの「違う考え方をする」という考えに基づいていました。他のコンピュータメーカーは、演算処理のスピードやメモリ容量などのつまらないことについて語りましたが、アップルは特別な想像力のある人々のためのコンピューターだったのです。

この活動は、ジョンレノンやガンディ、ボブディランなどといった偉人の白黒写真を用い、その下に「違う考え方をしよう」という言葉がついていました。

その次にジョブズは、アップル社が再び立派な製品を生産できるように会社を再構築する必要がありました。彼が最初に行ったことは全ての製品開発チームに彼らが取り組んでいる製品が本当に必要かどうか説明を求めることでした。

ジョブズは、アップル社はあまりにも多くの製品を作りすぎていることがわかりました。彼は、携帯情報端末(いわゆるPDA)のNewtonを含む、70%の製品の製造中止を決めました。彼はまたプリンターやサーバーの製造も止めました。当然、3,000人という多くの従業員を解雇せざるを得ませんでした。

-----------------------------

それからジョブズは非常に単純明快な戦略図式を描きました。それは4つの区画に分かれた四角形でした。今後は、アップル社は4つの部門だけに焦点を当てることにするのです。1)デザイン設計の専門家達用のデスクトップコンピュータ(MacProかいな?)、2)デザイン設計の専門家達用のノートパソコン(MacBookPro?)、3)一般消費者向けのデスクトップ(iMac ?)、4)一般消費者向けのノートパソコン(MacBook?)

ジョブズは決してうまく付き合っていくのが楽な人物ではなかった。しかしながら彼はアップルに復帰したときに、やりにくい性格の彼とでも一緒に仕事をやっていける、骨があって冷静で才能もある最高幹部のチームを作ることができた。ジョブズは、大きな会社は2流または使えない人材を雇いすぎたときにつぶれ始めると信じていたから、自分のチームには一流の人材だけが欲しかったのだ。

最も重要な一流人材の一人が、ジョナサン・アイブというアップル社のデザインチームのわかりリーダーだった。アイブは英国人だった。彼の父親は銀細工師で、息子である彼には自分の手でものを作る楽しみを教えていた。アイブはデザイン学校で初めてiMacを使っていたのだが、「iMacとはつながりを感じる」と言った。

カレッジを出た後(英国ではUniversityとcollegeは違うんですよね。大学と高専の違いに近い感じです)、アイブはロンドにタンジェリンというデザイン会社を設立する手助けをした。タンジェリン社がアップル社のためにある仕事をしたとき、アップルはアイブの作品をとても気に入り、1992年に彼を雇うことにした。

アイブは1996年にアップル社のデザイン長になったが、満足できていなかった。金儲けに焦点が置かれすぎて、良いデザインに焦点が十分置かれていなかったのだ。彼はアップル社を辞めようと考えていたが、そんなある日、ジョブズが作業場所にやって来た。二人は話を始めた。ジョブズと同じで、アイブはドイツのデザイン、特にディーターラムズの大ファンだった。

 

ジョブズとアイブはすぐに意気投合した。ジョブズは新しいデザイン長を雇うつもりにしていたが、気持ちを変えた。アイブがふさわしい男なのだ。ジョブズとアイブは、技師が商品デザインを支配する他の会社とは違って、アップル社ではデザイナーがデザインを担当すべきであるという考えで一致した。2人はまた、デザインというのは明日商品が単にどのように見えるかだけではない、という点でも一致した。デザインとは、1つの商品がどのような効果や影響を持つのか、トータルとしての購買者体験であるという点で一致したのだ。

アイブとジョブズが一緒に制作した最初の商品はiMacだった。iMac作成に当たっての哲学は見かけがまったく異なるコンピューターを作ることだった。たいていのデスクトップパソコンは重くて、見かけが悪くて、ベージュの(要するに暗い色)物だった。iMacは卵またはドロップのような形をしていた。それは親しみやすくいたずらっぽく見えた。ジョブズとアイブはiMacに中が透けて見える青のケースを選んだ。こうした青のケースは高くついた、しかしそのケースのおかげでiMacは独特の魅力を身につけた。技術(的な機械)を恐れる人達ですら、iMacなら恐れないはずだ。

iMacはジョブズがアップル社に復帰した1年半後の1998年8月に売り出された。iMacはその年末までに80万台売れ、アップル社の、その時までの最大のヒット商品になった。「違った考え方をするという哲学が功を奏していた。

ジョブズの新しい経営チームの中でもう一人の重要人物はティム・クックだった。クックはアップルに赴任する前はコンパックやIBMのような会社で勤務経験があった。かれは調達供給チェーン管理(受発注・原材料調達・在庫管理・配送の一連の流れを情報技術を駆使して統合管理し企業の経営合理化をはかる手法)の専門家でした。彼はまた、朝の4時半にしばしばメールを送ってくるような猛烈社員でもありました。ジョブズとは対照的に、彼は口数の少ない物静かな男でした。

 クックはアップル社の商品保管所の半分以上を閉鎖し、部品調達業者を100から24に削減し、全ての製造工程を外注しました。こうしてアップル社は以前よりずっと利益が上がる効率の良い会社になったのです。

ジョブズはコンピューターの売れ方が変わりつつあることに気がついていた。昔は、コンピューターはコンピューターが大好きな人達が経営する小さな専門店で売られていた。それが今では、コンピューターの大部分が、街の端にある醜い大型小売店で売られている。こうした店の店員は技術のことを大して知らない。そうした店員達にはマックのどこがいいのかお客に説明することなどできはしないのだ。 

ということで、ジョブズはロンジョンソンを、ターゲットという全米で2番目の規模をもつ小売りチェーンから引き抜いた。二人は力を合わせて、コンピューターの売り方を変えた。二人は、どのようにすればアップル社の製品にとって考えられる限りの最高の店を作ることができるのか話あった。彼らは街の真ん中のおしゃれな場所にある大きな店舗でMacを売りたかった。2人はまた、店舗をスッキリして無駄のないデザインをした格好いい店にしたかった。ジーニアスバー、というアップル社の生人の使い方についてお客さん達がアドバイスをしてもらえるカウンターを設ける、というのも新しい概念だった。ジョンソンはその発想を、5星ホテルのコンシェルジュサービスから得たのであった。

GAP衣料チェーンの最高経営責任者ミラード・ドレクスラーもジョブズに店舗のデザインについて良いアドバイスを与えた。彼は「ありとあらゆる種類の店内配置を試すことが出来るモデル店舗をひとつ建てなさい」と言った。そこで、2000年に、アップル社は本社近くの在庫保管所内に試作品の店舗を建てた。Aチームのメンバーは週に一度6ヶ月の間、店舗の内外装を洗練するためにそこに集まった。

当初、モデル店舗はコンピューターの種類ごとに異なる売り場を持つ生産ライン単位でレイアウトされていた。ところが、全員がデザインは完了したと思ったその時に、ロン・ジョンソンが新しい考えを思いついて夜中に目を覚ました。店舗は音楽や写真や動画などのテーマごとにレイアウトすべきではないだろうか?

ジョブズはジョンソンの考えに賛同し、店の内装は土壇場で変更された。人々はよく、こうしたことがアップル社の特徴だ、という。他社は、普通の物事をやっていれば満足している。アップル社は常に100%完璧を求める。だからアップル社は全てがしっくり収まるように、頻繁に「まき直し(やり替えて)」て土壇場での変更を行うのだ。

最初のアップルストアはワシントンDCの裕福な郊外にあたるバージニア州のマクリーンに建てられ、2001年5月19日に開店した。スティーブ・ジョブズが2011年に亡くなるまでに、世界中には350のアップルストアができていた。ニューヨーク市の5番街にある店舗は実際、世界のどんな店舗よりも一平方フィートあたりの売り上げが多いのだ。

アップルストアの売り上げはアップル社全体の売り上げの15%に過ぎない。しかし、厚板ガラス、つや消しした鉄、白木、チタンそしてガラス張りの階段などといったおしゃれな内外装をもち、しかも素晴らしい顧客対応を持ち合わせているので、アップルストアはアップルというブランドの広告塔として機能しているのである。

デジタルハブ戦略

今やアップル社のコンピューターは順調に売れていたので、ジョブズは新しい戦略に入る機が熟したと判断した。彼はパソコンは「デジタル・ハブ(デジタル機器やソフトの拠点)」になるという見通しを持っていた。

「デジタル・ハブ」とは何を意味するのだろうか?元来、人はコンピューターを、手紙を書いたり帳簿をつけたりといった実用的なことに使ってきた。しかしこれからは、コンピューターを遊びで使ったり、創作活動をするために使ったりするようになるとジョブズは思っていた。ビデオカメラで録画した動画や、撮った写真、ダウンロードした歌など、全てが自分のパソコン上で使えるようになるだろう。1999年に、アップル社は個人のマルチメディアコンテンツの管理補助をするソフトを発表し始めた。こうした製品の中には、ホームビデオを編集するiMovie、音楽を管理するiTunes、写真を修正して保存するiPhotoなどがあった。

iTunesは自宅のコンピューターに入っている音楽を管理して聴くことを容易にしたが、車の中やジムではどうだろうか?当時は、使えそうなmp3音楽プレーヤーは何も手に入らなかったのだ。プレーヤーはあっても、使いづらくほんの数曲しか曲が入らなかった。

ジョブズはいつでも音楽が大好きだった。彼のお気に入りはボブディラン、ビートルズ、そしてローリング・ストーンズだった。彼は、アップル社に使いやすくて、たくさんの曲を保存できる携帯型音楽プレーヤーを作らせたかった。

ジョブズは良く日本へ来て日本の会社が開発している最新技術を視察していた。2001年2月、東芝を訪問したときに、かれはとても小さな5ギガバイトのハードディスクを見せられた。5ギガバイトあれば、1000曲保存できる。

ジョブズは新型の音楽プレーヤーを2001年のクリスマスまでに店の在庫に収めたかった。ということは、10月までにマスコミ発表できる準備を整えなくてはならなかった。あまりにも時間がないので、誰もが懸命に働かなくてはならなかった。

新型プレーヤーを使いやすくするために、アップル社はクリックホイールを発明した。クリックホイールのおかげで、楽曲の長いリストを簡単にスクロールできるようになった。ジョブズはまた、最大3クリックでしたいことはどんなことでもできるようにすべきだと言い張った。

デザイン責任者のジョナサン・アイブは、アップル社の音楽プレーヤーをどのように他社と差別化して格好良く見せるか、彼なりの考えを持っていた。彼は、全ての物を白にしたかった。プレーヤー本体だけではなくヘッドフォンも含めてである。

アップル社は、新しい機械をiPodと呼んだ。ジョブズが(予定どおり)2001年10月に世間に発表した際、かれは自分のポケットからiPodを取り出し、それがいかに小さいかを示した。(いつもながらプレゼンは上手いですな。)

iPodは小さかったが399ドル(この頃は1ドル122円位だったから、4万8千円超)で安くはなかった。しかしそれでも、大ヒットした、それはひとつには素晴らしい宣伝活動のおかげである。黒い横顔のシルエットが色鮮やかな背景を背に踊り、手にした白いiPodから白いケーブルが両耳まで伸びているのである。タグ付けされたセリフは「あなたのポケットに1000曲」だった。(かっこいい!)

再び、ジョブズはハードウエアとソフトウエア、技術そして娯楽性を統合することで成功を収めたのだ。

 音楽愛好家として、ジョブズは著作権侵害を心配していた。人々がインターネットから音楽をダウンロードするので、音楽家達はもはや自分たちの作品に対する報酬を得ていない状態だった。レコード会社各社は(ソニーアンドユニバーサルの)プレスプレイや(ワーナー、EMI、バーテルズマンの)ミュージックネットのようなオンライン音楽ショップを設立することで著作権侵害の問題の解決に努めていた。しかし、それらのショップは提供楽曲数があまりにすくなく音楽の保存もできなかったのであまり良いサービスとは言えなかった。

ジョブズは人々は音楽を盗みたいと思っているわけではなく、単に他の方法がないだけなのだと思った。彼は、もし自分が音楽入手の過程を簡単にすればきっと購入してくれるはずだと考えた。ジョブズはオンラインのiTunesストアを作り出して、人々が欲しい音楽を入手する手助けをし、その音楽を作り出した音楽家達に支払いができるようにした。

iTunesストアが間違いなく多数の曲を提供するようにするために、ジョブズはたいていの大手のレコード会社と契約を結んだ。アップル社はその当時、ほんの5%しかコンピューター市場にシェアを持っていなかったので、レコード会社各社はアップル社が手強い競争相手になるとは思っていなかった。

iTunesストアが2003年4月28日に導入されたとき、iTunesストアは20万曲を保有していた。一曲あたり99セントで販売された。1週間のうちに、アップル社は600万曲を売り上げた。iTunesストアは更に2006年2月までには10億曲、2010年2月までには100億曲、そして2011年6月までには150億曲を売った。アップル社はいまでは世界第一の音楽小売店なのだ。

 アップル社はiPodの新しいモデルを導入し始めた。小さくて、軽いmini(2004年1月発売)やshuffle(2005年1月)、そしてnano(2005年9月)のようなモデルは、ランナーやジム通いをする人達にとても人気があり、アップル社のシェアを70%超に押し上げた。

音楽活動をする人間達もiPodを市場開拓の小道具として興味を持った。2004年にアイルランドの超人気ポップグループU2は、アップル社に彼らの新しいシングル曲Vertigoの販売促進に協力するように依頼した。U2はアップル社の技術を使えばもっと若いファン層に訴えることができると気づいたのだ。

U2はiPodのコマーシャルに出演したが、出演料は取らなかった。彼らは他の2つの方法でお金を稼いだ。1つは、コマーシャルだけでも新しいレコードの売り上げは増すはずだったし、2つめにはアップル社が黒と赤のU2特別仕様のiPodを作成していて、バンドのメンバーはそのモデルが1つ売れるたびに印税を受け取っていたのだ。

1997年、ジョブズがアップル社とピクサーの両方の会社を同時に経営していたとき、ジョブズの労働は過酷を極めていた。非常に疲れたので、腎臓結石ができてしまった。2003年10月には、医者から腎臓検査を進められた。

検査結果で、腎臓は問題ないとわかったが、膵臓に陰があった。膵臓を検査するとガン腫瘍がひとつ見つかった。ジョブズの友人達は皆、早急に手術を受けるように忠告したが根っからのピッピ-だったジョブズは代替治療でまずはやってみたかった。

かれは特別な食事療法を始めた(肉、魚、卵それに酪農製品は一切取らず、飲むのはにんじんジュースと果物ジュースだけだった)。また鍼やハープ治療もやってみた。9ヶ月後の2004年1月、もう一度検査をした。主要は大きくなっていた。

とうとうジョブズは手術を受けた。膵臓の一部を摘出したときに医者達はガンが既に肝臓に転移しているのがわかった。ジョブズは皆にもう大丈夫だと言ったが化学療法を始めざるを得なかった。

ジョブズは非常に意志が強く、徹底して自分がしたい通りのことしかしかなった。もし彼が他人の忠告を受け容れてもっと早く手術を受けていたら、今日まだ生きているかもしれない、と考える人達もいる。

手術を受けた翌年、スティーブはスタンフォード大学で演説を行った。彼は学生達に彼にとって死が意味するものについて語った。

過去33年間、私は毎朝鏡を見て自分に問うてきた。もし今日が人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることをやりたいだろうか?何日も続けてその答えがNOだったら、何かを変える必要があるとわかる。

自分は間もなく死んでしまうと言うことを忘れないでいることは、これまで私が出会った中で、人生における様々な大きな選択をする手助けをしてくれる最も重要な小道具となっている。あなた方も自分がやがて死ぬということを覚えていると、それは私が知る限り「自分には失いたくないものがある」と考えてしまう罠を避ける一番よい方法である。あなた方は既に裸である。自分の気持ちに従わない理由はない。あなた方の時間は限られている。だから、他人の人生を生きるような無駄をしてはいけない。教義に囚われてはならない。それは他人の思考の結果に寄生している。他人の意見という雑音に自分自身の内なる声をかき消させてはならない。そして最も重要なことは、自分の気持ちと直感に従う勇気を持つことだ。それらはどういうわけか既にあなた方が本当になりたいものを知っているのだ。

アップル社は順調だった、そしてスティーブのもうひとつの会社であるピクサーもそうだった。トイストーリーの後、ピクサーはバグズライフを1998年に作り、1999年にはトイストーリー2、2001年にモンスターズインク、2003年にファインディング・ニモ、2004年にMr.インクレディブルを制作した。これら全ての映画が何百万ドルもの収益を上げ、ニモは世界中で8億7千万ドル稼いだ。

ピクサーのパートナーであるディズニーは自社のアニメ映画ではあまり成功を収めていなかった。そこで、ボブアイガーがディズニーの最高経営責任者に2005年になったとき、かれはピクサーを買収することにした。ディズニーはピクサーに740億ドル支払った。ディズニーは株で支払いをしたので、ジョブズはディズニー株の7%を持つ最大の株主になった。

ジョブズは買収後も慎重にピクサーの独立を守ろうとした。彼はピクサーが大企業の単なる一部になってしまうとその魅力を失ってしまうと心配した。ディズニーはピクサーを買収したが、ピクサーはディズニーのアニメ部門の実権を握った。またピクサーはディズニーとは離れた場所に自分たちだけの事務所(いくつも)を構えた。

ジョブズは人々がコンデジを使わなくなっているのに気づいた。なぜか?それは皆が写メり始めていたからだ。ジョブズは同じ事がiPodでも起きえることに気づいた。もし誰かが良い音楽プレーヤーが付いた携帯を作ったら、iPodも休息に売れなくなる可能性がある。

たいていの会社は現存する自社製品と競合するような製品は作りたがらない。しかしジョブズはもしアップル社が音楽の聴ける携帯電話を作らなかったら他社が作ることがわかっていた。

そこでアップル社は電話通信会社のモトローラ社と組んで、ROKR(ロッキングチェアの意味ではなくて、ロックンロールと同じ意味でのロッカー)と名付けたiTunes時計を作った。2005年9月にそれが発売されたときの反応は、極めて悪かった。ぱそこんからロッカー時計に曲を転送するのは遅かったし、100曲しか保存できなかったのだ。

ジョブズはアップル社は他のどの電話会社よりも優れた携帯電話を作ることができると確信した。モトローラと作業を進めている間に、アップルは独自の携帯電話の開発も始めた。

最初のうちは、アップル社の開発チームメンバーはどのように電話をデザインして良いか確信がなかった。iPodに搭載したようなクリックホイールを使うべきか、それともタッチスクリーンのほうが良いのだろうか?

数ヶ月後、チームはタッチスクリーン技術を取り入れることに決めた。ジョブズはフィンガーワークス社というデラウエア大学出身の2人の科学者が設立した会社を買収した。その会社は人間がガラス上で指を動かす動きに反応する多重タッチ技術を開発していたのだ。

多重タッチ技術を持っているということは、アップル社の電話にはキーボードが不要であることを意味した。それはジョブズが常に追い求めた単純性(シンプルさ)を備えることになる。しかしそれだけでは十分ではなかった。ジョブズはまた他社の携帯電話とは全く異なると感じさせるデザインが欲しかった。

当時、たいていの携帯電話は安っぽくて、軽くて、プラスチックの手触りだった。ジョブズはアップルの電話には特別な手触りを持たせたかった。彼は、ガラススクリーンがあれば電話をもっと優雅にできると確信した。ただ、人は良く携帯電話を落とすので、アップル社は簡単に割れないガラスが必要だった。

ジョブズはニューヨークにあるコーニンググラスと言う会社を耳にした。コーニングはゴリラガラスと呼ばれる非常に強いガラスを1960年代に開発していた。誰もそのガラスを欲しがらなかったので、会社は製造を止めていた。

ジョブズは莫大な量のゴリラガラスをコーニングに発注した。社長は衝撃を受けた。ゴリラガラスを作っている工場はひとつもないのです。できません、と彼は言った。

ジョブズは社長の目を見て、恐れては行けない。あなたにはできます。と言った。ジョブズは何事も不可能ではないと信じていた。もし何かを起こしたいと思ったら、起こすことはできるのです。ジョブズのカリスマ性が功を奏した。コーニングの社長は同意し、6ヶ月も経たないうちに、コーニングはかつて一度も大量生産したことがないガラスの製造を行っていた。

おわり!!